見えている世界が違うこと

私の夫は喧嘩の仕方を知らない。喧嘩に勝とうと思ったことすらないと言う。喧嘩に勝つ必要がないからだと言う。荒々しく拳を振り上げ、誰かに暴力を振るうことを生まれて一度もした事がないと言う。昭和生まれの私は何度か人間が殴り合う姿を目の前で見た事がある。夫も少なからずそういう経験はあるそうだ。実際に私もドイツの路上で人々が殴り合う姿を見た事があった。右翼と左翼がデモで衝突し殴り合う姿、酔っ払いが痴話喧嘩で殴り合う姿、ただの痴話喧嘩で川の土手で殴り合いをする若者たち。別にこれと言って不思議な光景ではない。どこにでもある、本能を剥き出しにした人間と暴力の姿だ。

人々は理性ある人間になるようにと教育をうける。どこの国でも、人を無闇に殴ってはいけない、傷つけてはいけないと教わる。しかしちゃんとそれを守って生きていける人間は少ない。暴力という強さがないと生きていく事ができない環境の中で育つ人の方が多いのだ。日本やドイツのように暴力がなくても平等な人権と安心して暮らせる環境が揃っている国の方が圧倒的に少ないのだ。理性を保てないということは人間として劣っていると思っていた。けれど理性や理想だけで生きていく事が困難な環境にいる人がこの世界にはたくさんいる。

ドイツに住んでいると、話し合う事がとても重要視される。それは暴力のない喧嘩のようなものだ。ドイツでの話し合いということは、自分とは違う意見を持っている人の話を聞くこと。そして理解をすることだ。しかし、私は時々理解ができない。自分の考え方の方が合理的で正しいのに、どうしてあの人はわざわざ手間を増やして面倒くさいような遠回りをするのだろう?と思う事がよくある。何度説明しても、話し合っても、うまく噛み合わない。なぜなら、向こうも私の考えが不思議で理解できないからだ。そういう時は、諦めるしかない。理解できない、和解できない、という現実を受け止めてそれ以上問題点が交わらないようにする。向こうにも私の言い分を強要しないし、向こうも私に強要してこない。あの人には、あの人のやり方がある。それが私と違うだけ。私も彼らも考えが違う人のことを悪くいって貶したりはしない。それが尊重というもの、なのではないかと最近よく思うのだ。

ドイツ人の夫と暮らしていると、どうしても価値観の違いですれ違う事がある。時々、私はすごく腹を立てることもある。イライラだってする。けれどしょうがないのだ。私たちは同じ人間でも、中身がまるっきり違うのだから。私が望むような結果にならなかったり理解を得る事ができなかったら、さっさと諦めることは結構重要なのではないかと思う。理解を得れなかったからといって、そこで夫婦生活が破綻するわけではない。むしろ、その違いを楽しんで新しい世界を知った方が得のような気がする。この人から見える世界の景色は私とは違う。この人の目にはどのようにこの世界が映るのだろう?と考えてみることは、案外楽しいことなのだ。

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