嫌がらせをする方が実は被害者である

誰かの間違いを正すこと、間違った認識を正すことが成功しにくいのが当たり前の中に私たちは生きている。今や“正しいこと”の定義すら難しい。あの人にとって正しいことは、私にとって正しくないことがこの世界にはたくさんある。そういうことを私たちは少しずつ認識するようになってきた。自分が信じていた正しくて揺るがないものが、ある日突然に正しさを失ってしまう。自分の中で信じていたものが普遍的だと、自分の中での正しさの基準が変化したことによって軸がずれてしまう場合もある。

時々、ものすごく意地悪な人に出会うことがある。当たり前なことに彼らは何か不愉快なことがあって相手に意地悪をする。意地悪をすることで、自分の中にある不愉快なものを発散することができると思い込んでいるのだろう。しかし、実際のところ相手に意地悪をしたところで何か良い結果を得られるわけじゃない。行き過ぎた意地悪はときに、相手のことを思う、という程をなす。しかしそれは薄っぺらい正義の薄皮にしかすぎない。

意地悪が趣味な人をよく観察してみると、彼らには共通点がいくつかある。その中で特に目立つのが彼らは能動的に生きることができないという点である。彼らはどこかの誰かから根拠もなく与えられた、正しいこと、良いこと、かっこいい事の本質に触れる事なく表面的にそれらを盲信してしまっているからだ。だから彼らの人生も薄っぺらい幸せの薄皮で出来上がっている。そういう人たちは自分の人生に満足できないことを、周りの環境のせいにしがちだ。だから意地悪をすることで発散をして、自分の正義を認めてもらおうと努力する。それはまるでドンキホーテの物語に似ている。

誰かに嫌われて嫌がらせをうける。そしたらまず最初に思うことは、私は何か相手が不愉快に思うような行動をしたのだろうか?という疑問が生じる。きっと何か不愉快なことを相手にいってしまったのかもしれないし、知らないうちににしてしまったのかもしれない。そして相手はそれを訴えてくる。こういうのが気に入らないから、今後はそういうことがないように努力してくれと。ここまで聞くとなんてことない大人の対応だ。しかし大抵の人間は、これだけじゃ収まらない。(この時点で収まる人は、とても理性のある人間でぜひ自分を誇りに思って欲しい。)だんだんとエスカレートする嫌がらせに毎日が嫌になってくる。一度話し合って解決したように見えても、嫌がらせはいっこうに止まらないどころか嫌がらせのレベルがどんどん上がっていく。どうしたものかと考えて悩むだろう。残念なことにこの嫌がらせをなくすためにこれ以上できることは無い。なぜなら、彼らの歪んでしまった正しさを誰かが元に戻してあげることは不可能だからだ。嫌がらせを行うその人自身が、自分の中に大きな問題があることに気がつかない限り、それは解決できない。嫌がらせをすることで自分を発散し肯定することしかできないからだ。

これらは一見、嫌がらせを受けた方が被害者に見えるが、実は本当の被害者は嫌がらせをする方である。もちろん嫌がらせを受けるという点では被害者ではあるが、本当の被害者は、不幸な自分を肯定することができないでいる加害者だ。心の中に歪みがあり、相手を受け入れることができない、相手に変化を望むことしかできない。もしここで、相手をいじめることで得られる発散や歪んだ幸福感を、自分自身の人生がより良いものになるために努力することに充てることができたなら、嫌がらせは収まるだろう。そんなことをしている暇はないのだから。

私たちは誰かの価値観を変えることは不可能だということに少しずつ気がつきはじめている。自分の人生を誰かが良いものにしてくれる、という幻想の時代はとっくに終わったのだ。自分の人生を良くできるのは、自分自身でしかない。すごくシンプルなことなのに、案外みんなそれに気がついていない。ドンキホーテのように、本当の敵は自分の中にいるのだ。

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